言葉に地域差があるということは、いつごろから意識されていたのでしょうか。
※ この記事の初出は『新「ことば」シリーズ』16号(2003、国立国語研究所)です。当時の雰囲気を感じられる「ことばのタイムカプセル」として、若干の修正を加えた上で公開します。
言葉の地域差は、ふるく奈良時代から見られます。『万葉集』巻14の東歌・巻20の防人歌を見ると、政治の中心地である奈良の言葉と東国の言葉とがかなり異なっていたということが分かります。たとえば東国のうち現在の関東地方にあたる地域の言葉には、
武蔵野の小岫が雉立ち別れ去にし宵より夫ろに逢はなふよ(夫に逢っていないことだ)(巻14・3375番歌)
のように打ち消しの助動詞として「ナフ」を用いる、
大君の命かしこみ弓の共真寝か渡らむ長けこの夜を(長いこの夜を)(巻20・4394番歌)
のように形容詞の連体形の語尾がエ段音になる(この例では中央語で「長き」となるものが「長け」になっています)などの特徴がありました。
このように奈良時代にはすでに言葉の地域差があり、そのことが『万葉集』などの文献に記録されています。このことは、すでに言葉の地域差が人びとに意識されていたということを示していると考えられます。
平安時代の文献には、当時の方言に関する記述はほとんど見られません。ただ文学作品における描写から、当時の都の人びとが方言をどのような意識で見ていたのかをうかがうことができます。
『源氏物語』の「宿木」の巻には、薫が常陸前司の姫君である浮舟の一行と出会う場面で、東国出身の浮舟の従者について、
声うちゆがみたる者、「常陸の前司殿の姫君の、初瀬の御寺に詣でゝ、帰り給へるなり。初めも、こゝになむ宿り給へりし」と申すに
とあるように「声うちゆがみたる者(声がひどくなまっている者)」と表現しています。また『今昔物語集』にも、東国方言を「横ナハレタル音(なまった声)」(巻19-11)と表現している例が見られます。
このように平安時代の文学作品には東国の人の言葉づかいをとりあげた場面がいくつか見られます。当時の方言のなかでも、とくに東国の方言が都の言葉と異なるものとして、都の人びとに強く意識されていたのでしょう。またその際当時の都の人びとは、東国方言をいやしい言葉という意識で見ていたと考えられます。
江戸時代になると東国の言葉の位置づけも変わってきたようです。江戸時代には、政治の中心が京都から江戸へと移り、江戸の文化が形成されます。それにともない、東国の言葉のなかでも、とくに江戸の言葉が上方の言葉に対抗する大きな勢力を持つにいたりました。そして上方の言葉と江戸の言葉とを対比してとらえるような意識も出てきたようです。
式亭三馬『浮世風呂』には、上方の女性と江戸の女性とが、たがいに相手の言葉をとがめ立てする場面があります。上方の女性は江戸の女性の言葉について、
へヽ関東べいが、才六をぜへろくとけたいな詞つきじやなア。
と述べています。ここでは「アイ」という連母音が江戸語で長母音「エー」となることをとりあげて「けたいな詞つき」と評しているのです。依然として江戸の言葉を低く見る意識が見てとれます。しかしこれに対して江戸の女性も、
そりやそりや。上方も悪い悪い。ひかり人ツサ。ひかるとは稲妻かへ。おつだネヱ。江戸では叱るといふのさ。アイそんな片言は申ません。
と述べ、上方の言葉で「シ」と「ヒ」とが交替することをとがめ立てています。そして上方の言葉をさして「片言」、つまりなまりのある言葉と言っています。
江戸の町の発展とともに、江戸の人びとも江戸の言葉が上方の言葉に対抗するもの、あるいは自分たちの言葉のほうがより正しいとするような意識を持つようになっていたものと思われます。