「日本語を外から眺める」ってどういうことですか。
※ この記事の初出は『新「ことば」シリーズ』15号(2002、国立国語研究所)です。当時の雰囲気を感じられる「ことばのタイムカプセル」として、若干の修正を加えた上で公開します。
「日本語を外から眺める」というのは、まずは「日本語を母語としない人の視点にたって日本語を見る」ということです。
日本語を母語とする私たちは、子供のころに自然に日本語ということばを身につけ、日々日本語でコミュニケーションを行っています。しかし、それだけに、私たちは、無意識のうちに日本語を「あたりまえ」のものと思っているところがあります。また、日本語に限らず、どこの言語でも「母語」に対しては母語話者ならではの思い入れがあるものです。そのため、私たちはどうしても「日本語はどのような言語か」、「私たちはどのようにコミュニケーションを行っているのか」ということを客観的に見られないところがあります。母語話者であるがゆえに、日本語を見る際の視野はかえって狭くなっている場合もあるのです。
「日本語を母語としない人に、日本語ならびに日本人のコミュニケーションがどのように映るか」を知ることは、日本語を見る際の新しい視点を私たちに提供してくれます。そのことは、私たちの日本語に対する見方を広げるための重要な第一歩になります。
しかし、単に「日本語を母語としない人の目から見た日本語の姿を知る」だけでは、本当の意味で「日本語を外から眺める」ことにはなりません。「このような見方があるのか、なるほど」だけでは、他人の見方を借りているにすぎないからです。やはり、「日本語を母語としない人の目にはこのように映るのか」ということをふまえつつ、あらためて自分自身の目で日本語を見つめなおすことが必要でしょう。
このことに関連して、私自身の経験を少しご紹介します。
私の妻は中国人なのですが、ある日、妻から「今日の料理のどれが一番おいしかったか」と聞かれたので、「全部おいしかった」と答えたところ、妻は「いや、どれが一番おいしかったか」とまた聞いてきました。本当にすべておいしかったのでそう答えた私としては、なぜ「一番」にこだわるのか、その理由がよくわかりませんでした。ただ、考えてみれば、「どれが一番」と聞かれて「すべて」と答えると、話がそこで止まってしまいます。実際はすべておいしかったとしても、それとは別に、話の流れを途切れさせないために、とりあえず「一番」を答えればよかったということではないかと思います。
よく「日本人ははっきりものを言わない」と言われますが、もしかしたら、その背景の一つに、日本人は「実際にどうであるかはともかく、話を先に進めるために、とりあえずこうだと決める」ということが苦手だということがあるように思います。また、文化によっては、実際にどうであるかはともかく、話題によっては「会話を維持するためにとりあえず立場表明をしておく」ということがたいへん重要な意味を持つとも考えられます。
もちろん、日本人であれ中国人であれ、コミュニケーションのしかたには個人差もあるでしょう。私の推測があたっているかどうかを検証するには、いろいろな視点からの調査研究が必要です。しかし、上で述べたささやかな考察は、自らの体験をもとにして、「日本人ははっきりものを言わない」という‘外の目’からの評価をふまえながら、自らの視点から一歩ふみこんだ考察をおこなっています。単に「このような見方があるのか、なるほど」だけで終わらずに、もう一歩ふみこんで、自分自身の視点から日本語について考えてみることが重要だと思います。