中国人の友人が「日本人はやたらとあいづちをうつ」と言っていました。私はあいづちをうたないと、何か落ち着かないのですが。
※ この記事の初出は『新「ことば」シリーズ』15号(2002、国立国語研究所)です。当時の雰囲気を感じられる「ことばのタイムカプセル」として、若干の修正を加えた上で公開します。
人とのコミュニケーションにおいては、ちょっとした「サイン」が重要な意味を持つことがあります。「話を聞いているよ」というサインである「あいづち」もその一つです。「日本人はあいづちが多い」とよく言われますが、これに関連して、私は次のような経験をしたことがあります。
私が新聞を読みたいと思って、妻(中国人)のお父さんに、そばにある新聞を取ってほしいと頼んだところ、お父さんは新聞を手にとり、私に無言で渡したので、一瞬、気を悪くさせたかと思いました。そのとき、私は「日本人だったら、物を渡すときは、『はい』とか『ほら』とか、何かしら『渡すよ』というサインを出すし、受け取る方も何かしら『受け取ったよ』というサインを出すんじゃないかなあ。」と思いました。
ほかにも、次のような経験があります。1992年に中国の大学で教えていたとき、知り合いの先生に電話をかけました。交換手に内線番号を伝えて、その先生につないでほしいと頼んだところ、交換手は何も言わずにその先生の部屋に電話をつないでくれました。交換の仕事はきちんとやっているわけなので、結果的には問題がないのですが、日本なら「承知しました」とか「少しお待ちください」とか言うところでしょう(もっとも、最近は中国でも無言で電話をつなぐことはなくなってきたようですが)。
また、そのときの宿舎は「友誼賓館」というところだったのですが、そこのフロントでも同じようなことがありました。私を含む日本人は部屋のキーを受け取ると、必ずフロント係に向かって何かしら「受け取ったよ」というサインを出すのに対し、中国人の客は、そのようなサインを日本人ほどはっきりとは出さないという印象を受けました。
これらの例に限らず、日本人は、コミュニケーションのさまざまな局面でこまめに言葉や動作によるサインを出しますが、中国人は、個人差はありますが、日本人ほどはこまめにサインを出さないようです。「日本人はあいづちが多い」という印象もそこから来るものでしょう(ただし、中国人は中国人で、日本人が気づかないようなサインを出しているのかもしれませんが)。
日本人と外国人のコミュニケーションのあり方が異なることを示す別の例を一つあげましょう。
中国の西安に滞在したときのことです。街の食堂で名物の“羊肉泡馍“(半生のパンを細かくちぎって丼に入れ、羊のスープをかけて食べる)を注文しました。そこに、ウェイトレスが私と同年齢くらいの男性を連れてきて、同じテーブルで相席になりました。私は、そのままパンをちぎっていましたが、彼の方はどうも落ち着かない様子でいます。しばらくして、もうがまんできないという様子で、彼の方から「どこから来たのか?」と話しかけてきて、ようやく落ち着いた様子になりました。中国人には、「同じ場を共有する者どうしがコミュニケーションをとらないのは不自然だ」という感覚があるようです。ブラジル出身の日向ノエミア氏は、日本の大学で、講師控室に入ってくる講師たちが、特別な関係がない限り、あいさつも話もしないことに苦痛を感じたと述べていますが、これも同じような感覚でしょう。
「コミュニケーションをとるということはどういうことか」、また「人とのコミュニケーションにおいて何が重要か」という価値観は、文化によって異なります。日本の国内でも、年代や地域によってコミュニケーションのあり方が少しずつ異なります。今後は、このようなことを敏感に察知できる感受性がますます求められるようになるでしょう。