会話の中で「旨い旨い」「偉い偉い」と同じ言葉を繰り返すことがありますが、どのようなときにこのような言い方をするのでしょうか。
私たちは会話の中で(1)のように同じ言葉を繰り返して言うことがあります。
(1)は(2)のように繰り返さずに言うことも可能です。
なぜ(2)のように言えるところをわざわざ(1)のように繰り返すのでしょうか? この疑問に対しては、旨さの程度や偉いと褒める気持ちが(2)より(1)の方が強くなる、つまり、強調のために繰り返しているといった説明が思い浮かぶかもしれません。このような「強調」説は、直感的にわかりやすいですし、繰り返しの特徴の一面は捉えていると思うのですが、次に示すような事例を理解するには物足りないところがあります。
例えば、(3)のように繰り返さない形では少し不自然な場合でも繰り返しにすると自然になることがあります。
繰り返さない形で表される内容や気持ちが繰り返しによってさらに強まるということであればわかるのですが、そもそも繰り返さない形が使いにくいのに繰り返すと自然になるのはなぜか、という疑問に強調説は答えてくれません。
また、逆に(4)のように繰り返さない形は自然なのに繰り返しの形にすると不自然になることもあります。
(4)は自説を強く主張するような文脈であり、実際「とっても大事」「ほんと大事」のように強める言い方はできるので、「大事大事」が不自然な理由を強調という観点から説明することは難しそうです。
このように、「どのようなときに同じ言葉を繰り返すのか?」という疑問に答えるためには、繰り返しが自然に使われている例を見るだけでなく、「繰り返しが不自然になるのはどういうときか?」「繰り返さない形と比べてどうか?」という視点もとりいれて考える必要があります。繰り返しの自然さは、繰り返す語の長さや品詞、会話相手がいるかいないかなどの条件によって変わってきますが、ここでは会話において形容(動)詞を繰り返す場合に話を絞り、話者の会話への参加態度が繰り返しの自然さに関わっていることを示したいと思います。
結論を先に述べると、会話における形容(動)詞の繰り返しは、
という会話相手とのインタラクション(「AがBに向けて発話する、それに応じてBがAに発話を返す、さらにそれを受けてAがBに……」という会話参加者同士の働きかけあい)が顕著な発話に現れます。先に挙げた(1)は、話者の能動的な反応を引き出すような先行談話(「よね」を伴った明確な同意求めや、子供の健気なふるまい)があり、それに話者が即応して「(うん、)旨い旨い。」「(泣かなかったね、)偉い偉い。」と繰り返しながら相手への同調の気持ちを示したり、子供のふるまいを進んで評価したりする発話になっています。(2)((1)と同じ状況での「(うん、)旨い。」「(泣かなかったね、)偉い。」)のように繰り返さない形でも会話は成立しますが、繰り返しの形にすることで会話というインタラクションに積極的に関わろうとする話者の態度が示されることになります。
それに対して、(4)のように話者が一方的に話している場合や、以下の(5)のように相手の事情説明に対して興味なさげに相槌を打つような発話などでは繰り返しはあまり自然にはなりません。(4)は相手の言動・行動を受け止めるという側面、(5)は能動的に自らの気持ちや意見を表明するという側面が弱いためです。
面白いのは、話者の態度によっては(5)も自然になることです。それは例えば、Aが部屋の狭さ自慢を事あるごとにする人物で、同じような話を何度も聞かされていたBが耐えかねて、「君のその話にはもううんざりだ」という態度をAにありありと示すときです(「へー」を思いきり低く発話した後、1つ目の「狭い」、2つ目の「狭い」を徐々に高くしていくようなイントネーションで再現してみてください)。この場合、相手に対するネガティブな態度をむしろ能動的に示す発話になるので、繰り返しも自然になります。
なお、(3)で繰り返さない形(同意求めに対する反論としての「いやいや、狭い。」)がやや不自然なのは、(3)が、自らの見解を示すことで相手に認識の捉え直しを迫るという(1)よりさらに一歩踏み込んだ発話(いわゆる“ツッコミ”)になっていることが関わっています。日本語では捉え直しを迫るような相手への強い働きかけを行う発話には多くの場合「よ」「って」「から」などの終助詞が必要になり、終助詞がないと話者の認識を伝えるだけの発話になってしまうのです。
繰り返さない形が終助詞なしでは不自然なのに繰り返しの形だと自然になるということからも、繰り返しが単なる強調ではなく会話に積極的に関わる話者の態度と結びついていることがわかります。
以上のように、仔細に観察してみると、同じ言葉を繰り返して発話するという勢いに任せて行っているように見える言語行動にも一定の法則性、すなわち文法を見出すことができます。さらに、その文法は話者が会話にどのような態度で臨んでいるかというコミュニケーションのありようと深く関わっているのです。